2009年10月01日

お葬式

 日本でも安楽死が認められたら、しかもそれが病もなく健康体の人間でも構わないというようなことにでもなれば、ちょっとお願いしてみたいという気持ちがある。理由は二つ。
 まず、とにかく痛いのとか苦しいのが嫌いだということ。死というものはたいてい痛みが伴うものだ。その時の苦しさたるや想像を絶するものなのではないか。そして今ある悩みや苦しみから解き放されたいという気もある。さらにこれから襲ってくるかもしれない病魔や借金苦などといったハードな出来事に、私のプレパラートガラスのような心が耐えきれないと思うからだ。
 といっても「では来週の金曜日に」なんてことになったらそれはそれで恐ろしくてたまらないだろう。だから「数年のうちの良きところで」みたいな感じで、忘れた頃の真夜中にMJの担当医が現れて寝入っているところに注射、といったシステムがいいのではないか。
 もう一つの理由。私は人生においての一大目標として、自分の葬式にできるだけ大勢の人を集めることを掲げている。まだ友達も元気だし、働いているので仕事関係者もそれなりにいる。さらに近隣縁者、親戚、、、私は月の初めに参列予定者のリストを頭の中で更新しているのだが、今なら300人くらいは可能性がありそうなのだ。ブラックジャックで例えると今手持ちのカードは17くらいの感じだと思う。ここらが勝負どころではないか。
 その際一つ神様にお願いしておきたいのが、召される前に自分の葬儀の様子を俯瞰で眺めさせて欲しいということだ。大挙して集ってくれた人々が私の死を嘆いてくれていたら、それこそ言葉通り天にも昇る気持ちだろう。私の事などにはまったく関心がなく、帰り道に出された寿司の品評などされていたら、それは自らの不徳のいたすところと甘んじて受け入れよう。しかしどうしても認められないのが、参列者が少ないという事態だ。これでは死んでも死にきれない。もし10人くらいしかやって来なかったら、怒りと失意でとても成仏などできないだろう。その時は参列者予想リストと照らし合わせ、たいした用もないのに訪れなかった人々を一人一人あたって、祟ってやろうと思う。
 私と3回以上顔を会わせていたら、リストアップされている可能性がある。
 だから、これを読んでくれた身近な方々、私の葬式には顔を出しておいた方がいいと思うよ。
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2009年09月03日

本気でやれば夢は必ず叶う

 人は本気で努力すれば大抵のことは為せる。本当にそう思う。なぜなら具体例を身近で目撃したからだ。その人は私の大学時代のジャズ研の2つ上の先輩で、敬意を表してここでは仮にデッチーと記させていただく。
 デッチーはとにかく我が儘な人だった。後輩の私が頼まれた弁当を買って戻ると、「まだ腹が減ってない」とその弁当を買い取らされたり、合宿中に練習を見てくれるというので必死で練習して部屋に行ったら、「今日は気分が乗らない」と後輩の女子を引き連れてドライブ行ってしまったり。デッチーを乗せて車で学校の近所を走っていると洒落た感じのアパートが建ち始めていた。彼はそのアパートを眺め、「あそこ、いいじゃん」とはしゃいでいた。それから1週間後、デッチーがその新しいアパートに住み始めたと聞いた。だが、先日見た時はまだ外壁も一部しかなくて、どう考えても完成まで数ヶ月かかる感じだった。遊びに来いよというので興味津々で見に行ったら、相変わらず外壁は工事中で骨組みだけの張りぼて状態だった。その中でポツンと一部屋だけにドアがついていた。「どうしてもすぐに住みたいといったら、俺の部屋だけ先に作ってくれたんだよ」とデッチーは誇らしげだった。それを聞いた時思った。人間、本気で願えば大抵のことは叶うものだ、、、いや、そんなことが言いたいんじゃなかった。
 デッチーは当時最先端の雑誌だった「ポパイ」に憧れて、お洒落なポパイ少年を目指して九州から東京の大学にやってきた。それがどう間違ったのか、学内でも最も流行とは縁遠いジャズ研に入りドラムを始めることになってしまった。だいたい楽器の演奏経験もなかったそうだ。
 しかし彼は恐ろしいほどの努力を重ね私が入部した頃にはすでに伝説の存在になっていた。彼は上手くなりたい一心で、なんと毎日公園で8時間も基礎練習を重ねたという。ドラムの基礎練習を例えていえば、野球やゴルフでの素振りに相当するだろう。そんな変化のない退屈な練習を毎日8時間も続けるなんて狂気の沙汰である。
 そんな噂を聞いていた私は初めてデッチーの演奏を聴く前は、どれだけ素晴らしいドラムなんだろうと期待した。しかし、たしかに物凄く上手いのだが、音楽としてはあまり響いてくるものを感じなかった。それは彼が演奏を始めたのが大学になってからで、元々音楽の下地がなかったからなのだろう、と私は生意気にも分析していた。だが2年たち、彼の卒業演奏では音楽性にも磨きがかかって、聴かせる奏者になっていた。さらに大学卒業後、ドラムのトッププロに師事した彼の演奏にはさらに円熟味が加わって、コンテストでも賞をとる程の腕前になり、もうプロと遜色のないレベルになっていた。だがジャズのドラマーとして生活していくというのはなかなか厳しい。だから本業は元々の目標だった教職を選んでいた。そんな中でプロドラマーという生き方に気持ちが傾きかけてきた頃、デッチーに悲劇が起こる。ドラマーとしては致命的である腰を患ってしまったのだ。しかしこれで彼も気持ちの整理ができたことだろうと思っていた。
 しばらくして、デッチーからゴルフクラブを買いに行くんで付き合ってくれという連絡があった。当時私はゴルフ雑誌に携わっていたので、何かアドバイスを得られると思ったのだろう。しかし店に向かう途中の車で話していると、凝り性のデッチーはかなり研究を進めていたようで、もうすでにその時点で私のゴルフについての知識を遙かに凌駕していた。そしてクラブを手に入れた彼は当然のごとくゴルフにのめり込んでいった。
 大学時代の仲間との飲み会の帰り、電車で私の前に立ったデッチーがやけに大きく見えたので足元を見ると、なんと彼はつま先立ちしていたのだ。どうやらそれはゴルフのための筋トレの一環らしかった。まるで「スラムダンク」である。面白いのでいろいろと話しを聞いてみると 寝る時もグリップの感触を手に馴染ませるためにクラブを握って寝ているという。そして寝る前には必ず布団にボールを置いてアプローチの練習を繰り返したそうだ。それも隣で寝ている奥さんの布団越しにターゲットを置いてそれを越える練習をしたというのだ。奥さんはたまったものではないだろうが、「緊張感が出ていいんだよ」と語っていた。
 デッチーの腕前は急速にあがり、彼より先にゴルフを始めていた我々はあっという間に太刀打ちできなくなった。仲間同士のゴルフではあきたらなくなった彼はゴルフクラブの会員になり、オフィシャルのハンデもシングルになった。そのうちクラブチャンピオンになり、ついには国体で東京都の代表として選ばれるまでになってしまった。本人は「日本中の教員の中で自分が一番ゴルフが上手い」と豪語していたが、「教員で」という部分が悲しいところで、もう30代に入った彼がプロゴルファーを目指すには無理があった。もっと早くから一つの道を見つけて極めていれば、私はそれが残念でならなかった。私は彼に「そこまで上手くなっていったいどうするんですか?」と尋ねてみた。すると彼はゴルフの腕と教員という立場を使えば、ジュニアの育成ができるのではないかと考えていると語った。ゴルフはお金がかかるスポーツなので、学校にゴルフ部がある所は限られている。そこでゴルフ界には顔がきくようになってきた自分が練習場やゴルフ場にかけあって施設を安く借り、ジュニア育成のために尽力したい、と言う。
 ついに彼の仕事と趣味がシンクロしたのだ。その後の飲み会で、デッチーは私立高校でゴルフ部の創設に参画することになったことを報告した。そして、中学生に物凄い逸材を発見したので、なんとか自分の学校で育てたいと夢を語っていた。楽しみな話しだったが飲んでいたこともあり、学校名までは記憶していなかった。それからデッチーは学校の移動などで多忙になり、私の方も身辺が騒がしくなり、しばらく会う機会がなかった。
 次に彼の姿を見たのはスポーツ新聞紙上だった。。彼は杉並学院という学校のゴルフ部の監督に就任していて、教え子についてのインタビューに答えていた。そして彼が見つけてきた逸材というのがあの石川遼だったのだ。その時心底思った。人間というのは本気になればたいていの夢は叶うものだと。
 デッチーは20歳ぐらいから始めたドラムとゴルフというまったく異なる2つの分野をたった6〜7年でほとんどプロというレベルにまで極めた。もしかしたら素養はあったのかもしれないが、20歳まで芽が出ていないということは少なくとも天才ではなかったはずだ。
 だからきっと誰だって、真剣に努力すれば、必ず自分の夢にたどり着けるはずなのだ。
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2009年08月28日

総選挙

 待ちに待った総選挙がやってくる。
 私は選挙が大好きなんで、よくぞ4年間も待たせてくれたなという感じである。選挙の日は祭りモード。リモコン片手に選挙速報をはしごして、もう片方の手でインターネットで情報収集。夜明けまで存分に楽しむつもりだ。
 選挙時になると政治家は通常以上に、いかに自分に有利な状況になるかということだけを考えて行動する。有権者から見れば、自分の利益でなく信念を持ち、もっと国民目線で考えろ、と言いたいところだろう。しかし、政治家にとって最大の仕事は何か。それは国民生活を改善することでも、政策を立案することでもない。何よりの仕事は選挙なのだ。だいたい選挙に通らなければ、政治家ではなくなる。選挙に落ちるということがどれだけ恐ろしいことか、想像してみてほしい。
 選挙に落ちれば彼らはたんなる失業者になってしまう。もし自分がリストラの危機にさらされれば、誰だってあらゆる手段を使って抵抗するはずだ。選挙にかかる費用だって相当なものだ。人によっては巨額の負債を抱えることになりかねない。さらに政治家を志す人たちは当然自己顕示欲が強い。落選すれば、自分の負け犬姿が全国にさらされ、彼らのプライドはずたずたになる。
 昨日、ずっと応援しているある代議士の演説会に行ったのだが、その時彼は「自分の政治活動のうち7割は選挙にとられてしまっている」と嘆いていた。おそらく日本で最も選挙に強い政治家の一人であろう彼からしてそうなのである。
 政治家を志した当初は、自分なりの国家観や信念もあったろう。しかし、票を集めるためには人々に頭を下げ、支援団体にすがらねばならない。ゆえに彼らからの要望をむげにはできなくなってしまう。そしていつのまにか、元々の自分の理念から次第に遠ざかって、、、なぜアナキンがダースヴェーダーになったかみたいな話しになってしまった。
 だから、議員の人生をそして日本の命運を左右する貴重な1票を大事にしましょう、なんて展開になると思ったら大間違い。私にとって選挙での一番の興味、それは「誰が落ちるか」である。
 もちろん政治信条もあり応援している候補もいるわけだが、私は権威というものが嫌いなので、その象徴でもある政治家が滑り落ちていく様が痛快でならない。だからそれが著名で大物と言われている人であればあるほど高揚感がます。しかし、私だってけして鬼ではない。先に記したように選挙に落ちた政治家の傷みというものは、充分に想像できる。注目される議員が敗戦した場合、たいていインタビューを求められる。
 負けが決まって支援者も去り閑散とした事務所、片目しか描かれなかった巨大なダルマ、そのかたわらで逃げ出したい気持ちを必死にこらえ、絞りだすような声で敗戦の弁を語る候補者、これを涙無くして見られようか。
「祇園精舎の鐘の声〜盛者必衰の理をあらはす」いにしえの人々が『平家物語』を聞きものの哀れに感じ入ったように、崇高な心持ちで人生の悲哀を堪能させていただくのである。
 時として予想外な感銘を受けることもある。少し前の選挙で、まず落ちることはないと思われていた大物議員が落選した。私はテレビなどで不遜な態度をとるこの議員が好きではなかった。相手はまったく無名だった女性候補。彼が敗れたことは嬉しい驚きだった。そしてその議員の敗戦の弁を興味深く聞いていた。彼は意外にも毅然としていて当選した女性議員を賛辞し、関係者に謝辞を述べ、自らの敗戦を潔く認めた。政治家としてやるべき事はやったというプライドがそこにかいま見えた。瀬戸際でどう振る舞うのか、けっこう人は見ているもので、その敗戦以降に彼を再評価する人は多くなった。
 さて今回の選挙、どうやらペルセウス座流星群の当たり年のごとく、あちらこちらで巨星が消え落ちる様が鑑賞できそうなのである。

 8月30日(日)は第45回衆議院総選挙の投票日。我々の未来を決める1日です。是非皆で投票に行きましょう。

※新聞などの選挙情勢で「両者競り合う」とか「○○激しく追う」などとある中で「△△独自の戦い」という表記がある。「独自の戦い」、実にいかした表現だなあと思う。
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2009年07月13日

S女史とのマージャン

 人生何をしている時が一番楽しいか? 美味しいものを食べている時、付き合い始めのデート、リゾートでのバカンス、けれどそういった事より、何よりもあっという間に時間が過ぎ夢中になれるのがマージャン、それが私の学生時代の友人の共通認識だった。学生時代は週3回、さすがに社会人になってから回数は減ったが、やはりマージャンと決まっている前の日はワクワクしたものだ。しかしある出来事をきっかきに、それほどまでに好きだったマージャンにのめりこめないようになってしまった。

 ある日、ライターのGさんとの打ち合わせ中、「今度、雑誌社の主催でSを囲んでのマージャン大会があるんだけど、良かったら来ませんか?」との誘いを受けた。漫画家のS女史とはGさんを通して何度か面識があった。彼女のファンを招待して全部で60人も集う大きなイベントで、S女史の招待枠で5人ほど入れるという。S女史はマージャン好きの人間なら一度は卓を囲みたいと願う存在。実際には身内枠は彼女と対戦はないようだったが、なんとも魅力的なイベントである。私は「必ず行くんで絶対他の人には声をかけないで下さい!」と即答した。

 大会は夜に始まって、朝方に終了という進行だった。会社での仕事を終えて、会場であるホテルの控え室に着くと、S女史を含めた招待枠の5名がすでに揃っていた。私はS女史を見つけて招待のお礼を言うと、彼女は前置きもなしに、いきなりこんなことを聞いてきた。
「ねえ、今日いくらもってきた?」
 私はギャンブルの場なら賭け事も当然ありえると思って、多少の現金は用意しておいたのでそう告げると、
「じゃあ、今日はみんなで馬身をやるから。1馬身は5千円ね」
 馬身というものを知らなかった私がそのルールを尋ねると、順位差に応じて上位のものが下位のものから賞金を得ることができるというギャンブルだと言う。例えば6人の中でトップになれば2位とは1馬身差なので5千円、3位は2馬身で1万円、6位なら5馬身で2万5千円をそれぞれから得ることができる。私はマージャンにはちょっと自信があったので、望むところだった。

 開始時間になり会場に入ると、S女史には女性ファンが非常に多いので通常のマージャン場と異なり、そこは華やかで楽しげな雰囲気になっていた。その様子を見て私はあまり真剣に打つのも大人げないと、まあ適当にその場を乱さないくらいの感じで心地よく牌を握った。成績は半荘6回戦のトータルで決まる。
 残り2回戦となった段階で小休止となった。成績の方はトータルではややマイナスといった感じだった。別の広間の方に軽食や飲み物が用意され、その間に中間報告の集計がされていた。私は軽くサンドイッチをつまんでから、途中経過が記された会場の方に戻ると、自分の現在の順位は40位くらいであることを知った。S女史の関係組は皆調子が良いようで10位前後くらいに固まっていた。
 関係者が集まっているあたりに行ってみると、S女史が、
「Oさん、けっこうキツいことになってんねー」と嬉しそうに話しかけてきた。それほどのことかな?と怪訝に思っていると、その隣にいたS女史の旦那のKさんが「ざっと計算したら、だいたい80万くらいはいってんなぁ」と言う。その時に自分の大きな勘違いに気づいた。馬身はこの6人の順位で決めるものではなく、参加者全員の中での順位を元にしたものであったのだ。考えてみれば60人なんて大げさな大会は滅多にあるものではないのに、わざわざ仲間内6人だけの順位として考える方が間違っていたのだ。そして根っからのギャンブラーであるS女史が勝っても負けても数万程度なんて、そんなユルい勝負をするわけがなかったのだ。40位─10位は30馬身なので15万、これを5人に支払うとなると、、、私が呆然としているところにS女史は、
「ところで、これだけの負け、本当に今日払えるの?」と追い打ちをかける。私が、
「い、いや、こんなにいくとは思ってなかったんで、、、」と青くなっていると、彼女は、
「いいよ、別に。銀行が開く時間まで待っててあげるから」と言って、側にいたファンと談笑を始めた。私の憔悴した様子を見て直接の招待者であるGさんが、
「あんなこと言ってるけど、冗談だから気にすることないっすよ。まあ俺がなんとかしますから」
 と声をかけててくれた。しかし、S女史の様子から絶対に冗談なんかですまされるはずはない、とわかっていた。だいたい彼女だってこれまでに家1軒分くらいの負けを経験しているのだ。そんな彼女がギャンブルの精算を曖昧になどするはずがない。
 もしさらに順位が下がってしまったら、ゆうに100万は越してしまう。定期預金や積み立てている保険などを解約すれば100万くらいなんとかなるだろうが、銀行ですぐに下ろせる口座に100万なんて金が入っているわけがない。銀行では足りないと分かれば次はきっとサラ金に連れていかれるに決まっている。その金利がどんどん膨らんで、、、と頭の中には転落へのシナリオが広がっていく。

 休憩時間が終わり、それぞれの卓についた。カーテン越しにうっすらと空の色が変わり始めるのがわかる。会場に集っているファンたちは、一流ホテルの広間で、有名な出版社が開催するS女史とのマージャン大会を心から堪能しているようだった。そんな中でただ一人、私だけがドヨーンとした重苦しい空気を漂わせていた。残りは後2回、ここでなんとかしなければ、、、そう考えれば考えるほど息苦しくなり思考が定まらなくなってくる。これまであんなに早く過ぎていったマージャンタイムが、その時は永遠のように長く思えた。高層ビルにわたされた10センチの幅の板を渡る「カイジ」ような気分だった。
 結局、残りの2回は4人の卓で両方とも2着に終わった。後は皆の結果待ち。幸いなことに皆順位をおとし、私より下位になってしまった人もいた。その日の負けはなんとか持ち金で足りる範囲で収まった。しかしその時の恐怖はしばらく忘れることができなかった。マージャンといえどもギャンブルなのということを思い知らされた。そしてギャンブルというものには想像を超えた破滅が待っている可能性があるのだ。
「ギャンブルは、人生は、そんなヌルいもんじゃないわよ」S女史にそう諭された気分だった。
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フェデラーの夏

 20世紀に生まれて、本当に幸せだなと思えるのは、もう二度と現れることがないだろう素晴らしい3人のアスリートのプレーを見ることができたことだ。
 バスケットのマイケル・ジョーダン、ゴルフのタイガー・ウッズ、そしてもう一人がテニスのピート・サンプラスである。
 テニスはエースよりもミスによるポイントの方が多いスポーツなので、どうしても守備に優れた選手の方が勝率が高くなる。しかしそんな中に圧倒的な攻撃力を持った選手が現れ、王者として君臨する。テニス界ではそういった歴史が繰り返されている。その中にあって、サーブ、ストローク、ボレーと、ほとんどすべてのショットでエースを取ることができたピート・サンプラスは突出した存在だった。それを支えているのは類い希な身体能力で、鋼のように強靱で、しかもしなやかさを備えていた。そんな彼のプレーに私は夢中になった。
 彼は強すぎるゆえ、そしてコート内外であまりに真面目すぎたため、退屈な王者と言われていた。テニス界の中でもボルグやマッケンロー、そして同世代のアガシほどに彼の名が一般には知られていないのはとても残念なことである。
「つまらない」と表された彼に転機が訪れたのが、1995年の全豪オープン。この大会の直前、サンプラスの側にいつもあったコーチのティム・ガリクソンが病に倒れた。そして大会中にガリクソンの病気は脳腫瘍であることが判明した。その報道がなされた翌日の準々決勝、サンプラスのサービスゲーム中に観客から「コーチのために頑張れ!」という声援がとんだ。サンプラスはサービスの動作を止め、しばらく動かなくなってしまった。その目からは涙が溢れ始めた。ガリクソンは彼にとってたんなるコーチではなく公私ともに最も信頼を寄せる友人でもあったのだ。サンプラスは涙を袖で拭いながらもサービスを続け、泣きながらエースを連発し、試合を制した。初めて感情を露わにする彼の姿をみたテニスファンは、それ以来徐々にサンプラスを王者として尊敬するようになってきた。
 サンプラスは特にウインブルドンに強く、ビヨン・ボルグの持つウインブルドン5連覇を越えるのは時間の問題と思われていた。だが、その半ば2001年のウインブルドンで、サンプラスに憧れそのプレーを理想とするロジャー・フェデラーという若者に敗れた。しかし、その後も年に4回あるグランドスラム大会での勝利を重ね、記録を更新する14回の優勝を成し遂げ、史上最強のテニスプレーヤーの称号を得ることになる。
 最後の14回目の勝利は彼の地元アメリカで開催された全米オープン。そこで優勝した彼はその後の試合には一切出場せずに、そのまま引退を表明した。こんなに見事に引き際を決めたプロスポーツ選手が他にいるだろうか? そのあまりのカッコよさに敬意を表し、私も同時にテニス観戦からの引退を決意した。
 そうはいいながらも気にはなっていて、結果をネットで見たり、ダイジェストを見たり、試合の一部を見てしまうことはあった。サンプラス引退後に台頭してきたのは、ウインブルドンで彼に土をつけたロジャー・フェデラー。彼もすべてのショットに優れた非常にバランスのいいオールラウンダーで、とても動きの美しい選手だ。次の王者として君臨した彼は、グランドスラムでの勝利を重ね始めた。そしていつしかサンプラスとフェデラーはどちらが偉大なテニスプレーヤーかといった論議がなされるようになってきた。
 たしかにフェデラーは素晴らしい選手だ。しかし私がずっと見てきたサンプラスの躍動感溢れるプレーは、フェデラーを遙かに上回っているように感じた。これは過去を美化してしまうノスタルジーに過ぎないのだろうか。私にとってのより所はサンプラスのグランドスラム14勝という数字であった。
 しかしフェデラーの勢いは止まず、次々に勝利を積み重ね、ついに今年の全仏オープンでサンプラスの持つグランドスラムの記録に並んだ。そして次のウインブルドンに記録の更新がかかった。
 フェデラーは順調に勝ちあがり、決勝に進んだ。その歴史的な日、私はどうしても見届けずにはいられず、禁を破って試合当初からテレビの前で観戦した。会場にはボルグ、マッケンロー等、ウインブルドンの英雄たちが顔を揃えていた。もちろんサンプラスの姿もそこにあった。サンプラスはフェデラーになら自分の記録を破られることを納得しているようで、とてもリラックスした表情をしていた。
 決勝の相手は時期王者と目されながら低迷を続けていたアンディ・ロディック。このウインブルドンに向けて復活を期していた彼は絶好調だった。決勝は両者ともに持ち味を発揮した素晴らしい試合となった。それでも私はどうしてもロディックの方に肩入れをしてしまっていた。一進一退の攻防のすえ2セットずつを取り合い、最終セットに入った。互いにサービスゲームをキープしていくために試合は通常の6ゲームでは終わらず、長い長い延長戦に入った。
 この試合の中で何度か、フェデラーの方に絶体絶命のピンチがあった。しかしそのポイントを彼は強靱な精神力と、神業のようなプレーでしのいでいった。
 夏のウインブルドン、このテニスの聖地で、フェデラーの偉業が成し遂げられるのは必然のようだった。
 最終セットのなんと30ゲーム目、15ー14のリードで迎えた最後のポイント、フェデラーのボールに押されてフレームにあたったロディックのショットは空に高々と舞い上がった。
 この後に沸き起こるであろう歓喜、嵐のような祝福、そして荘厳なセレモニー、私はどうしてもそれを見ることができなかった。ロディックの打ったボールが観客席に落ちたのを確認すると、私はテレビのスイッチを切ってしまった。
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2009年06月05日

売れない本を作る罪

 村上春樹の新刊がとてつもない勢いで売れているという。出版界にとって数少ない喜ばしいニュースで、また売れているのが彼の本であることで大方の業界関係者は納得なのではないか

 一昔前に『誰が本を殺すのか』という本が話題になった。とても参考になる本だったが、どうしても著者に賛同できない箇所があった。それは本に貴賤があるかのように、くだらない本がベストセラーになってしまう現状を嘆く部分である。しかし本は文化的で特別な媒体で、売れることが全てではない、こういう考えが出版界の根底にあって、私自身も毒されていると思う。それが現在の出版業界低迷の元凶なのではないだろうか。
 子供や若者が本を読まなくなったという報道がよくなされるが、そこには「本は読まなければならないもの」という考えがみてとれる。強制されることでますます読者は離れていく。だいたい本なんて読まなくてもまったく困りはしないのだ。例えば私の弟は、学校の読書感想文で2冊、趣味のバイクの本を1冊と生涯でたった3冊しか本を読んでいない。それでも大学に入れて、私などよりよっぽど良い会社に就職している。
 もっと買っていただくという姿勢が必要なはずだ。では売れれば何でもいいのか。私はなんでもいいと思う。少なくとも売れている本を否定しようという気持ちにはなれない。
 出版なんてほんとに狭いマニアックな人々を相手にした商売なのだ。10万部売れればまごうことなきベストセラーである。しかし単純計算でいけば日本人の千人に一人にしか読まれていないわけだ。出版業界で「よしもとばなな」と言えば次の5千円札になる人、くらいに思われているだろう。しかし先日見た著名人の認知度を100人に聞くというTV番組で「よしもとばなな」を知っていたのはたった30人程で、その数は「猫ひろし」の半分にも満たなかった。つまりはそんな程度の世界なのだ。

 数年前の事、会社を辞めてフリーになり初めての仕事として、ある大型企画を出版社に持ちこんだ。実績もあった企画だったので、無事その出版社で進められることになった。その企画はシリーズ化が期待できたので、今後の自分の将来をも決める仕事と意気込んでいた。 
 その出版社の担当編集者と打合せしていると、先方からもいろいろなアイデアがだされた。その中で、付録を付けてはどうか、という提案があった。確かに面白いアイデアだったが、それでは原価があがってしまうので無理ではないか、と尋ねたところ、「定価をあげればいいんですよ」とあっさり言われ、当初考えていた倍の定価で売り出すことになった。私は定価が高くなることで読者が離れる危惧も抱いたが、その付録がつく魅力も捨てがたかった。それよりも、印税契約だったので定価が高い本が売れればより儲けが出るな、という妄想の方が膨らんできてしまった。だから、「もう一度、検討した方がいいのでは」という程度の意見に留め、あまり反対はしなかった。
 結局その本の売れ行きは惨憺たるありさまだった。その本を出してくれた出版社は相当な損失を被ったようだった。しばらくして担当だった編集者が、会社を辞めるという事を知った。このタイミングで辞めるということは、どう考えてもその企画の責任を負わされたとしか思えない。一方、私の所には結果にかかわらず予定通りの編集費が振り込まれた。これは当然の権利だし、当初の企画内容とだいぶ様変わりし、しかも売れ行きに大きく影響する定価を変更したのは先方だった。私の方だって、シリーズ化を当てにしていたので、大きな痛手だったのだ。しかし、このような話しを聞くとなんだかプレッシャーを感じてしまった。
 その編集者は幸いにもすぐに次の会社が決まり勤め始めた。その近況報告も兼ねて二人で飲むことになった。だが、彼の様子は冴えず、話しぶりから相当にキツイ職場のようだった。そしてその転職が、彼の家庭内にも影響を及ぼしているような感じだった。
 それからしばらくして、その人から私の携帯に電話が入った。私はなんとなく出る気がしなくて、放っておいた。そして、それ以降、、、いっさい連絡が来ることはなかった。

 だから、やっぱり、売れない本を作ってはいけないのだ。
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失恋の被害者

 切通理作の『失恋論』を読んだ。妻帯者の著者がかなり年下の仕事相手に恋し、敗れる様を描いた実話だが、失恋ごときでいい年の男がこうもみっとなくなってしまうものかと、そしてその醜態をあえて公にさらす姿勢に感動さえ覚えた。しかし同時に、著者が一連の事実を奥さんに告白する部分には罪深さを感じた。
 たかが失恋、でも今の平和な日本で、多くの人にとってこれが最もつらい体験なのではないだろうか。情けなくも、 私もそうだった。

 最もきつかったのは、初めての失恋の時。彼女と出会ったのは高校の学園祭だった。男子校生にとって彼女を作る最大のチャンスは学園祭。友達と2人で遊びに来ていた彼女は、まさに自分の思い描いていた理想の女子だった。必死に声をかけ、後夜祭に誘い、その後もアタックして、なんとか付き合えることになった。自分に起こった幸運が信じられないくらいだった。
 私は高1で彼女は一つ下の中3。付き合うといっても学校も家も離れているし、お互いに部活もあったので、平日に会うことはなく、月に何度か週末に会うといった程度の交際だった。当時は電話は各家庭1台、しかも固定の黒電話。私の家も彼女の家もそれがリビングにあったので、電話で長話をするような環境ではなかった。
 だから一番のコミュニケーション手段は手紙だった。手紙を送る、2〜3日で戻ってくる。それを読んで、また2〜3日で返事を書く。今の携帯、メールの時代からは考えられないことだろう。それでも充分に楽しかった。
 そんな付き合いが1年くらい続き、そして、その日がやってきた。週末のデートの約束をキャンセルされた後に届いた手紙。私はそのことを詫びる手紙なのだろうと思っていた。しかし書かれていたのは……もう会うのはやめにしましょう、という内容のものだった。その訳については触れられていなかった。呆然とした。何が起こったのかわからない。思い当たることもない。じっとしていられず、彼女の自宅の電話番号を回した。幸いにも受話器の向こうから聞こえたのは彼女自身の声だった。私は手紙を読んだことを告げた。しかし彼女は、「手紙に書いた通りだから、だから、、、もう会わない方がいいと思う」と言うだけで、理由を語ることはなかった。
 もう、2度と会うことができない、そう考えると本当にどうしていいかわからなくなって、何もする気力もない、眠れないし、食事もできない。でも人に覚られるのは嫌だったので、なんとか表面的には平静を保っていた。それが余計に辛い。結局そんなどうしようもない状態が数カ月続いた。完全に頭から離れるのにはさらに半年くらいかかった。
 しかし、まあ今となってみれば、それも懐かしい昔の想い出、そう思っていた。

 先日、実家に帰って昔の年賀状を整理をしていると、一通の封筒が見つかった。差し出し人の名前に記憶がない。開いて読んでみると、その手紙は私が高校時代に付き合っていた彼女の友達からのものだった。学園祭で私は彼女とその友達と3人で過ごしたのだった。手紙にはこんなことが書いてあった。
「この前は学園祭でありがとう。とても楽しかったです。わたし、ひとつ謝らなければいけないことがあるんです。帰り道、わたしたちに電話番号を聞いてきたよね。あの時Mさんに、『わたし、困るよ……どうしよう』って言われたから、『Mさんは彼氏がいるんで、電話はだめなんです』って言ったんです。でも、その時、すっごくがっかりした顔してたよね。それで、あなたはMさんのことが好きなんだなって分かりました。本当のことを言うと、Mさんに彼氏はいないんです。そのことを謝りたくて手紙を書きました。でも、それだけじゃないんです。あの日、いろいろと話をして、なんだか、あなたのことが気になるようになってしまって。だから、もしMさんのこと、わたしの勘違いだったらいいなと思っています。もしよかったら今度、会ってもらえませんか。うちは親が厳しいんで電話になかなか出られないんだけど、今週の土曜日は両親がでかけるんで、夕方の4時に電話待ってます……」そして電話番号が添えられていた。
 当時の記憶が鮮明に蘇ってきた。そうだった。3人で近くの駅まで帰る道すがら、私はなんとかして連絡先を聞き出そうとして、結局はお互いの住所の交換だけして帰ってきたのだった。
 そして、この友達からの手紙のおかげで勇気づけられ、彼女にアタックすることができたのだ。
 ただ、はっきり覚えてはいないが、この友達に対して、私は何のフォローもしなかったと思う。電話することもなく、手紙も書かず……。彼女はきっと私からの電話を待っていてくれたのだろう。そして自分の親友が私と付き合うことを知った時、彼女はどんな気持ちだったのか。
 私は自分の高校時代の失恋を、自分だけの最大の不幸と勝手に思って過ごしてきたのだった。

 読み終わった手紙を元通り折り畳んで封筒に戻し、私はもう一度、裏面に記された名前を目で追った。でも、結局、送り主の顔を思い出すことは出来なかった。
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2009年04月28日

全部壊してゼロになれ

 いい年をしてヤンキー漫画もないものだが、好きなものは仕方がない。「クローズ」の続編が読みたいがために、月刊誌の発売日の朝には必ず立ち読みするし、全巻持っているのに総集編をコンビニで目にするとつい買ってしまう。
 その原作以前の世界を描いたのが「クローズゼロ」という映画だが、これが非常に面白かった。映画は原作マンガに抵触しないように、それでいて世界観を壊さないようにうまく作られている。そこで、公開されたばかりの「クローズゼロ2」にも行ってみたが、前作よりもさらに素晴らしい。脚本とセリフが練れていて、俳優陣が見事だった。 原作ファンが楽しめるネタも随所にちりばめられている。
 相手方の大将役がとても印象に残ったので調べてみたら、なんと我が敬愛のCharの朋友、ドラマージョニー吉長のご子息、金子ノブアキ君だったのではないか。ドラマーとしての彼は知っていたが、いつの間にこんなにいい役者になっていたとは……そんな事を発端に映画の事を思い出したら、どうしてもまた観たくなってしまった。
 同じ映画を2日後にまた見てしまうなんて、初めてのことかもしれない。

 良い映画や音楽を聴いた後の30分の余韻、この時間は私にとって至福のエクセレントタイムである。2回目の鑑賞を終え、この時間をゆっくりと楽しもうとパンフレットを買い、あえて空いている各駅停車に乗りこんだ。すると、隣に座った30前後のサラリーマンがパンフレットを覗き込み、「面白かったですか?」などと言うのである。常に無愛想なので、見知らぬ人に話しかけられるなんてヘマはまずしないのだが、この時はよほど緩んでいたに違いない。だが、こっちも悪い気はせず、ついつい話し込んでしまった。
 パンフレットを見ながら、ネタバレしなように気を遣い映画のハイライトなどを解説してあげた。いったい自分は何をしているのか!?  さらに今回の見所として、原作にうまくつながるように作られているという部分を熱心に語った。だが、その時はなぜか相手の反応が薄かった。私は(きっと彼は原作が大好きなんだ。だから、原作を汚されぬよう、映画はそれとは別物と考えているのだな)と理解した。実際映画化が決まった時、原作ファンには批判的な声が多かったのだ。
 相手を気遣い、またパンフレットに戻り、個々のキャラクターの話しを始めた。すると先方はまたノッテきて、「やっぱり山田孝之はいいですね!」と言うのである。山田孝之は今回、主人公と同じ学校のライバルを演じている。 私も見所のある俳優と思っていたので賛同すると、その男は山田孝之について熱く語り始めた。そのうち調子づいて、山田孝之は「手紙」ではどうだった、「電車男」ではどうだったなどと、「クローズ」に関係のない俳優山田孝之論をぶち始めた。さらにはバラエティ番組での、誰もいじれない山田の存在感といった話しまで始めるので、今度は私があきらかに不機嫌になった。それを感じた奴は慌てて話しを「クローズ」に戻したのだが、その時点でもう映画を見終わってから20分は経っている。
 その後のやりとりで以下のことがわかった。その輩は「クローズ」の原作などいっさい読んでいないこと、しかも数日前、たまたまテレビをつけたら大好きな山田孝之が出ていたので、つい「クローズゼロ」を終わりまで見てしまった、という程度のろくでなしだったのだ。その物体は「僕はそろそろ」と行って、終着駅の2つ前で降りていった。もうゆっくりパンフレットを見ている時間もない。

 俺様のエクセレントタイムを、いったいどうしてくれるんだ!
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編集者にとって必要な能力

 古い雑誌や本を見ると、時に線が曲がっていたり汚かったりするものを見かけるはずだ。なぜなら、それらは編集者が実際にペンを使って書いていたものだからだ。
 線を書く時にはロットリングという精密なペンが用いられる。当時の編集者は0.1、0.2、0.5ミリといったペン先を常に携帯し、いつでも的確な太さを選んでラインを引くことができた。それがそのまま印刷されてしまうのだから、細心の注意が必要だ。だから、線を引くときは専用の定規を用い、熱で膨張し歪んだりメモリがずれないように、常に20度以下で湿度の低い場所に保管していた。ロットリングも使う前にはインクが均等に出るようになるまで5分ほど慣らし、使い終わった後は分解してインクが目詰まりをおこさないように清掃してから収める。
 以前在籍したゴルフ誌でのこと。女性編集長が、私が線を引いているところを覗き込んで「君は1ミリ幅の中に0.1ミリケイ(線のことをケイと呼ぶ)を何本ひける?」などと禅問答のようなことを訊いてきた。そんな事は試したことがなく、1ミリ幅にまっすぐひけるのはせいぜい1本だろうと思ったが、ちょっと見栄を張って「2本です」と答えたところ「私は5本引けるわよ」と勝ち誇って去っていった。(編集長になる人は違うなぁ)と思ったものである。

 勤め始めた頃、編集者三種の神器と言えば、「級数早見シート」「写植見本帳」「色見本帳」であった。
 級数というのは文字の大きさで1級が0.25ミリを示す。たとえば12級といえば、0.25×12=3で、3ミリ平方の文字ということになる。「級数早見シート」は文字の大きさを決めたり、スペースの中にその大きさの文字が何文字入るかを調べる時に使う。また行と行をどれくらい空けるかを行送り、文字と文字の間を字送りと言い、これも級数で指定する。
「写植見本帳」というのは印刷に使えるすべての書体が記されたものである。良く用いられる明朝体にも数種類あり、またそれぞれに5段階くらいの太さがある。それは「MM-OKL」(中明朝体)といったように記号で示される。また限られたスペースの中に文字をいれなければならず、文字を小さくすると読みにくい場合は平体といって、文字の縦を縮めるといった技もある。平体1なら90%、平体2なら80%といった具合だ。横を縮める場合は長体と言う。印刷所に原稿の印刷を頼む時には原稿の横に「13級 MM-OKL 字送り13H(級と同じ意味)、行送り20H、平体1 1L30W×16L」という呪文のような言葉を書き込まねばならない。
 新人の頃は「級数早見シート」で文字の大きさを決め「写植見本帳」で書体を決めるなどと悠長なことが許されたが、ある程度ベテランになってくると時間にも追われてくるので、例えば縦4センチ、横7センチのスペースに300字の原稿を入れるには文字の大きさと行間を何級にして、数百はある書体のどれを使うか、これを瞬時に判断出来なくてはならない。当然写植の記号は完璧に暗記しておく必要がある。
 私がゴルフ雑誌の後に仕えた上司は独特の嗜好があり11.5級とか、12.5級とかいった中途半端な文字をよく使う人だった。0.5級なんてそんな微妙な大きさに意味があるのかと思っていた私はその上司から、12.5級で印刷するように言われていた原稿を、どうせ解らないだろうと13級で指定してしまった。印刷所から届けられた校正紙を見るなり、上司は電話口で印刷所に怒鳴り込んだ。結局その上司はその後、編集本部長になった。
「色見本帳」とはあるスペースに色をひくときや、文字の色を指定する時に用いる。色はC(青)M(赤)Y(黄)の色の三原色にK(黒)を加えた記号で表記する。例えば緑ならC100%×Y100%。これもデザイナーとの打合せ時など、「色見本帳」をいちいち出して確認していたら呆れられるので、「C50×M30×Y20の部分、他と同系色にしたいんでCを20に落としてMを50に上げましょう」と言えるために、「色見本帳」をいつも持ち歩いて、日々色の組み合わせを覚えたものだ。

 さて、なぜこういったことが出来なくてはならなかったかというと、実際に印刷所から校正紙がでてくるまでどのような仕上がりになるか目に出来なかったためだ。思っていた仕上がりと違うからと変更を加えれば、また校正紙の出し直しになり、時間はかかるし、ミスの危険は増えるし、追加料金もとられる。だから、真っ新な誌面がどのようなデザインに出来上がるか、頭の中でしっかりイメージできなければならなかった。そのために上記の能力が必要だったのだ。
 今ではこれらの事はすべてパソコンの画面上で簡単に作業ができて、いくらでも変更できる。そしてすぐにプリントして確認することができる。
 文字の統一というものも編集者の大事な仕事だった。「行う」なのか「行なう」なのか、「歳」なのか「才」なのかといった事が1冊の本や雑誌の中で統一されていないと非常にみっともない。一般の読者はあまり意識していないかもしれないが、文字を扱う仕事のプロとして非常に大切な業務だった。しかしこれも今はパソコン上で一括で変換できる。

 その他、写真やイラストの扱い、印刷された文字をレイアウト用紙に貼ったりなど、編集者のやるべき手作業はとても多かった。こういったことを、それなりのレベルにまで習得するのに数年はかかる。昔はこれができればいっぱしの編集者と思っていた。実際、当時の編集者向けの実用書にはこういったことが全編に記されていたし、編集者を養成する専門学校ではメインのカリキュラムになっていたはずだ。
 ところがである、今やこれらのことは何一つ全く役に立たない。一切、意味がないのだ。

 貴重な若き日の数年間。いったいどうしてくれるんだ!
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2009年04月21日

ネット依存の悲劇

 レイアウトや原稿の直し等の編集作業、企画書などの書類作りや経理などの事務作業、さらに打合せ、調べ物などなど、今やほとんどすべての仕事がパソコンの画面上でできてしまう。で合間の息抜きはネット。もうパソコンそしてネットがあれば何もいならい、そんな感じ。さらに今では外出時も携帯でネットをチェックするのが日常になってしまった。
 とくにmixiは気が付くと開いてしまっている。マイミクの数は少ないが皆とても興味深いブログを書いてくれるのだ。中でも数人は日に何度も速射砲のようにアップしてくる。そして私はそれを全て迎撃するが如くチェックしまくる。電車の中で、ちょっとした待ち時間の間、しまいには食事しながら、人と飲んでいる時も気になってトイレに行く振りをしてネットを覗いてしまう。このままのペースでいったら、自分は全生涯のうち何年分をネットに費やすことになってしまうのだろう。

 さて、先日海外旅行にいった際、せっかく歴史的建造物や素晴らしい景観が目の前に広がっているというのに、やっぱり携帯でネットを開き、食いしん坊のマイミクがどんなお昼を食べたのか、を確認したりしてしまった。しかし、これが拙かった。インターネットは国境を超えたと言われるが、国と国との物理的な距離というものを甘く見ていた。
 日本に帰ってから、携帯代の請求額を見て卒倒した。そこには79000円という数字が。「ななまんきゅうせんえん!?」。これは今回の1週間の旅行代金とほぼ同じ額だった。
 その請求額を知ったのも結局ネットの画面。

 皆さんも気を付けてください。
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